三方原の戦
徳川家康公400年祭ということで、今・・・いろいろなイベントが開催されていますよね~
そこで、少しは勉強しておかないと・・・なんてことで、地元周辺で起きた、家康公が
敗退したことで有名な 「三方原の戦い」 のことをチョット調べてみました。
「三方原の戦い」 と言えば、徳川家康が武田信玄に大敗退し
浜松城に逃げ帰った・・・という戦いで、その時の戦いの戦死者を
慰霊するために 「遠州大念仏」 が始まった・・・とのことです。
まぁ~・・、その程度のことしか知りませんでした。
もう少し詳しく知っておこうかな・・? なんていう感じで
いろいろと、調べていくと・・・
三方原の戦いは、謎が多い合戦だったようですねぇ~・・・
戦闘があった場所やら、家康の逃げ帰った経路とか・・・
どのように戦いが始まったのか・・? とか・・・
どんな戦い方だったのかとか・・?
そもそも、合戦自体があったのか・・? なんて話もあって
結局よくわからなくなりましたね~~(笑)
よく言われているのが、武田信玄の上洛途中の、西上作戦だった・・・なんて話ですが
最近では・・・ 上洛の意図が無かったのではないか・・・? との見解が多いそうです。
そもそも、武田軍が戦う意思があったのか・・? そんなところも疑問に出てきています。
まぁ~~でも、そんないくつかの疑問を、たくさんの資料から、独自に解説し
なんとなく納得がいくような、説明をしている本がありましたので
読んでみました。
◆ 三方原の戦と 小幡赤武者隊 岩井良平
この本は、小説ではなく著者が現地調査やら
たくさんの資料、多くの歴史家等にインタビューしながら本を書き上げた
歴史資料・・・というような感じでしょうか・・・
本の内容を理解しながら、読み進めるのがなかなか難しかったですねぇ~・・(笑)
なんとなく読み終えました。
岩井氏の本の内容は、おおまかに言うと、三方原の戦いには
「武田軍の小幡隊」 が大きく合戦に関与しているのだが・・・
さまざまな歴史資料、「甲陽軍艦」 も含め、ほとんどの歴史書から小幡隊は意図的に
削除させられている・・・これはおかしいのではないか・・・?
三方原の戦いでは、小幡隊が最も活躍したにもかかわらず、
意図的に歴史から削除されているのはなぜなのか・・・?
そこで、三方原の戦いを調べ始めた・・・とのことです。
元々は、岩井氏ご自身の家系調査から始まり、国峰小幡氏に繋がっていることがわかり
調べていったら、三方原の戦いにぶつかった・・・とのことでした。
ですので、本の内容は、やや小幡氏にたいして、ひいき目で見ているようでしたね
なぜ、小幡隊が意図的に歴史から削除されているのか・・・?
そのあたりのところに憤りを覚えているようでしたね・・・
~~~~~三方原の合戦の疑問点~~~~~
◆ 合戦の開始時間が夕方・・・? 、普通合戦というのは朝からやるものである・・・?
しかも・・・戦闘時間が約2時間・・・ 2時間で徳川軍が壊滅というのも腑に落ちない話
徳川軍は領地争いで武田軍と過去にも戦っているし
いくら、武田が強いといっても
徳川だって、そうそう簡単に負けるような軍隊ではない・・・?
◆ 徳川軍は、武田軍の動きを浜松城から見ているのだから当然偵察部隊も出ているはずで
その偵察部隊からの連絡で、合戦の陣形をとっていることぐらいわかるはず・・・
そこへ、わざわざ負け戦覚悟で のこのこ出かけるのは、信長の手前もあるだろうが
あまりにも軽率すぎる・・?
◆ 武田軍がとった 「魚鱗の陣」 これは兵力の少ない側が
一気に敵の中央を攻めるための陣形武田軍は徳川軍の倍の兵力を
もっているのだから通常なら 「鶴翼の陣」 で敵を包囲するのが定石
しかも、待ち伏せ作戦なのだから当然自軍に有利な陣形をとってるはず・・・?
兵力の多い武田軍が 「魚鱗の陣」 で 少ない徳川軍が 「鶴翼の陣」
という不可思議な対陣これはあきらかにおかしい・・・?
◆ そして、ボロボロになった徳川軍を武田軍が全軍を上げてなぜ追撃しなかったのか・・・?
このとき武田全軍で追撃し、浜松城を攻めていれば、必ず落とせたはず・・・?
◆ 合戦が始まってすぐに 佐久間隊 酒井隊が戦わずして敗走したのはなぜか・・・?
◆ なぜ三方原を主戦場に選んだのか・・・?
次回へ・・・つづく・・・
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